飯能の千葉歳胤と石井弥四郎(二人の人物の掘り起し)
千葉歳胤は飯能市虎秀出身の江戸中期の天文暦学者で、当時著名な中根元圭・幸田親盈に天文・暦学・和算を学びました。幕府
天文方渋川図書光洪を助け、『蝕算活法率』185巻を著しました。その他『皇倭通暦蝕考』、『天文大成真遍三條図解』など多く
の書物を著しました。
石井弥四郎は飯能市原市場の江戸末期の和算家です。関流本流の市川行英の門人で、子の権現(天龍寺)に穿去問題の算額を奉
納しています(『算法雑俎』)。130丁程の和算資料が遺されていることが判明し、岩殿観音(東松山市)や吉見観音(吉見町)
などの算額を書き写し、独自に解いていることもわかりました。また子の権現の問題に至る勉強の過程がわかる円理関係の資料も
遺されています。
二人ともほとんど知られていない人物ですが(特に石井弥四郎は知られていません)、遺された資料を調べると、飯能にも相当
な人物がいたことがわかります。
千葉歳胤の詳細は拙著『天文大先生 千葉歳胤のこと』を参照下さい。
石井弥四郎の詳細は拙著『飯能の和算家・石井弥四郎和儀』を参照下さい(下記の「石井弥四郎調査の全文」でも見られます)。
二人の概要は以下の小論・講演会資料を参照下さい。千葉歳胤の概要
千葉歳胤は天文暦学者ですが和算も高レベルの人だった。一方、児玉空々は琴学(七弦琴)の
最盛期を招いた琴士で毛呂山町大字宿谷にゆかりのある人。二人の接点は・・・
千葉歳胤が行った円周率の計算を検証する。
石井弥四郎和儀は知られざる和算家でした。遺された史料を紐解くと本格的な和算家で
あったことがわかります。「埼玉史談」に掲載した小論。
石井弥四郎和儀の業績を具体的に述べる。
(群馬県和算研究会 会報50号(2016年)より)
千葉歳胤と石井弥四郎を紹介した飯能市東吾野での講演会資料です。
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石井弥四郎の詳細。『飯能の和算家・石井弥四郎和儀』の140頁余りの全文。
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千葉歳胤の概要
千葉歳胤(正徳三年(1713)〜寛政元年(1789))は、埼玉県飯能市虎秀(旧入間郡東吾野村虎秀)出身の江戸時代中期の天文暦学者でした。助之進と称し、陽生と号しました。江戸に出て、当時著名な和算・天文暦学者であった中根元圭に学び、元圭亡き後はその高弟幸田親盈に師事し、天文・暦学・和算等を学びました。
歳胤は幕府天文方渋川図書光洪を助け、独自の計算方法によって日食・月食に関して研究を進め、蝕算活法率185巻、皇倭通暦蝕考3巻などおよそ三十部百有余巻の書物を残して天文暦術界に貢献しました。晩年は虎秀の山里に帰ったといわれ、寛政元年(1789)3月6日に77歳で没しました。戒名は乾道陽生信士。歳胤の本姓は浅見氏であり、千葉姓を称した所以は不明です。また暦術の外に医を業としたともいわれますが詳細はやはり不明です。歳胤の墓は虎秀にあり、昭和38年に飯能市史跡として市指定文化財に指定されています。
歳胤のことについて、『増修日本数学史』は次のように述べています。
「助之進と称し、陽生と号す。初め数学を中根元圭に受く。元圭没して後ち、その高弟幸田親盈に従って学びたり。大いに数学および暦学に通ず。竊かに、日官渋川図書の職務を助けて、大いに補う所あり。実に図書の公務は陽生が内助に依りて、成りたる者なりと云う。蝕算活法率の大著述の如きは、最も著名なる者とす。その他、著書多し。授時補暦、白山暦応偏、皇倭通暦蝕考草、入転月行率、同附録中測 量術、歳寿万代暦等、その門に伝うる者、凡そ三十部一百有余巻、盛んなりと謂うべし。禀性温順、その利を求めず。その功を謀らず。悠悠自適す。これを以て、氏を知る者至って少し。惜哉、本年(寛政元年)某日卒す。行年七十七。」
歳胤の天文暦学に関する著書は、現存するものだけでも16種類・総計3,900頁を越す史料が遺されています。
歳胤は、関孝和―建部賢弘―中根元圭―幸田親盈―千葉歳胤という和算・暦学では当時一流の系統の中に位置づけられる人物ですが、一般的にはあまり知られていないようです。
千葉歳胤に関係する人物
1.中根元圭
中根元圭(1662〜1733)は江戸時代中期の著名な和算・暦算家であり、博識をもって知られています。元圭が歳胤の師であることは、『皇倭通暦蝕考』の序や『天文大成真遍三條図解』の自序、『改暦加減集』の引をはじめ多くの個所で歳胤自身が「元圭先生」と書いていることから明らかです。歳胤がどのような経緯からいつ頃元圭に入門したのかは不明ですが、年代的には元圭が死亡したとき歳胤は21歳であることから何れにしてもそう長い間の師弟関係があった訳ではないようです。
2.幸田親盈
歳胤の師、幸田親盈(1692〜1758)は武州埼玉郡八條領中馬場村(現埼玉県八潮市)の領主で、150石の旗本でした。『増修日本数学史』には、「友之進と称し、子泉と号す。幕府の士なり。中根元圭が門に在って、粛々たる者とす。門人頗る多し。彦循と共に中根流派に幹たり」、「幸田親盈は、中根元圭の門人なり。中根彦循は元圭の男なり。みな数学を善くす」、「数学を関流中根元圭に受けて、大いにその奥に通ぜり。人呼んで、中根流の算士と曰う。その名当時に振う。門弟に幕臣多し。彦循と共に中根流の骨髄たり」とあります。
歳胤は、『天文大成真遍三條図解』『大儀天文地里考』『改暦加減集』などの序や引、あるいは本文冒頭で「幸田親盈先生門人 千葉歳胤」などと記述しています。また、『天文大成真遍三條図解』の序の中では弧矢の問題について親盈との関係を述べています。さらに『天文残考集』の序の中で「親盈先生ノ門ニ遊フコト年久シウシテ」と述べています。
3.今井兼庭
今井兼庭(1718〜80)は現在の埼玉県児玉郡上里町金久保に生まれ、通称を勘蔵(官蔵)といい、赤城または兼庭と号し、算学を究めて江戸駿河台に住しました。門人には経世論者である本多利明(後述)がいます。『増修日本数学史』に、「幸田親盈の高弟にして、建部派中に在りて、錚々たる者とす。数学上の発明術二三に止まらず。・・・(略)・・・兼庭、傍ら暦学に通ぜり。門弟を育うこと多し。傑才少しとせず。本多利明の如きその人なり。兼庭著書多し」とありますように算学・暦学に秀でていたようです。特に算学については、『算法雑解』『演段維乗率』『円理弧背術』『授時暦講義』など六十一書を挙げ「凡そ七十余部、数百冊とす。盛んなりと謂うべし」としています。
兼庭と歳胤は、幸田親盈を師として同門でした。このことは歳胤の『天文大成真遍三條図解』の自序中に「コヽニ予カ同門今井官子トイヘル者アリ。ヨク算術ニ達ス。故ニ先生(親盈を指す)カレニ命シテ弧矢一術ノ半ナレルヲアタフ。官子コレヲウケテ心神ヲナヤマスコト三年。ツイニ其術意ヲ得タリ。眞ニ弧矢妙術ナリ」とあることや、『皇倭通暦蝕考』の序文中、および『蝕算活法率』の序文中に「今井兼庭者予同門也、無双算士也」とあることによって明白です。また兼庭の『「明玄算法』の自問十九の中には歳胤と門人の問題が掲載されています。
4.渋川光洪
渋川光洪(1722〜71)は初名孫次郎、後に図書光洪と名乗り寛延3年(1750)に天文方を相続しました。明和8年五十歳で亡くなっています。戒名は天眞院春室紹夢居士。渋川家は最初の天文方春海から始まる天文方の名家ですが、春海以降は若くして亡くなったりして代替わりが頻繁に行われたためか学力低下で家運は一時沈滞しました。幕末の景佑の時再び天文方の主導を握るようになります。
光洪は実兄則休が病死した寛延3年に天文方を29歳のとき相続しました。翌宝暦元年(1751)4月7日京都測量御用を仰付けられ、京に赴いています。
天文の実力が伴わなかったといわれる光洪に対して歳胤は、『大議天文地里考』では「奉 大先生」と述べ、『改暦加減集引』でも「奉 光洪大先生」と述べて光洪を立てています。さらに『蝕算活法率』では光洪が序を書いています。
5.歳胤の門人
『皇倭通暦蝕考』や『蝕算活法率』の序などから歳胤の門人を探すと、
篠山光官、石河貞義、佐々木秀俊、井上義教、佐治庸貞、小坂雄税、竹田近江清一、鈴木布道
などの名が見えます。合計すると18名の名が確認できます。
中根元圭と彦循の墓(京都・黒谷) 幸田親盈の墓(八潮市 妙光寺) 渋川光洪の墓(品川・東海寺)
千葉歳胤の現存著書
千葉歳胤の現存著書には下表のものがあります。
千葉歳胤の墓所
歳胤の墓は、虎秀の浅見家の墓地にあります。一列に並ぶ墓地のほぼ中央に歳胤の墓があります。歳胤の墓は高さ五十cm、幅二十三cmほどで前面に
「 寛政元酉年 乾道陽生信士 三月甫六日 」
とあり、左側面には
「天文大先生 俗名 千葉陽生平歳胤 施主 淺見幸助 」
とあります。右側面には、
「昔来し道をしほりに 行空の 何迷べき 雲のうへとて 」
とあります。
正面 右側面 左側面
歳胤の墓の近くには天文岩と天文霊神の祠があります。天文岩の高さは十m位はあろうか、下には岩窟もありここで歳胤が若い頃勉学したともいわれています。また、天文霊神の祠には寛政二庚戌年(1790)に祀ったものであることが納められている板札の所載でわかるといいます。寛政2年といえば歳胤が亡くなった翌年であり、早くから祀られていたことになります。
天文霊神と天文岩