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   やまぶき 和算と歴史随想
                                   
                                      



         

   兼明親王
 (後拾遺和歌集)

太田道灌像

埼玉県越生町の龍穏寺の太田道灌像
(橋本次郎作
 2019年4月撮影)

『算法便覧』の山吹の歌の場面

 『算法便覧』は武田真元(?~1847)により文政9年(1826)に刊行された和算書です。
 この和算書には「七重八重はなは咲くともやまぶきの みのひとつだになきそくやしき」とあり、右の数字の歌はこれにもとづいています。
 詳しくは「やまぶき」第44号を参照下さい。

   

 『算法便覧』にある
 数字の山吹の歌。




































     「山吹伝説」あれこれ  管理人の折々の記  管理人



ようこそ、「やまぶき 和算と歴史随想」へ
このホームページは主に埼玉及びその近郊の和算の調査研究と歴史随想を述べています




北武蔵(埼玉北西部)では次のような和算家がいました。

                      (飯能市)千葉歳胤・石井弥四郎 千葉歳胤と石井弥四郎隠れた人物の掘り起し

 (上里町)今井兼庭・吉沢恭周・安原千方   (本庄市)金井稠共・戸塚盛政   (深谷市)藤田貞資・川田保則

(熊谷市)代島久兵衛・鈴木仙蔵・明野栄章・黒沢重栄・戸根木格斎  (行田市)田中算翁・吉田庸徳・伊藤慎平

(小川町)吉田勝品・福田重蔵・松本(栗島)寅右衛門・田中與八郎・馬場與右衛門・久田善八郎  (嵐山町)船戸悟兵衛・内田祐五郎

(吉見町)矢嶋久五郎  (川島町)小高多聞治  (東秩父村)豊田喜太郎  (横瀬町)加藤兼安・大越数道軒



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  管理人の 折々の記

 

はもともと和算研究の個人通信誌に付けた名称です。
この名称にこだわり、ホームページの名称を

 「やまぶき 和算と歴史随想」
としました。

山吹の花言葉は「気品」「崇高」それに「金運」とか。少しはあやかりたいと思います。



















  
                「山吹伝説」あれこれ


   ある日、鷹狩に出かけた若き日の太田道灌がにわか雨に遭い、貧しい家で蓑を借りようとしたと
  ころ、出てきた少女は無言のまま山吹の一枝を道灌に差し出した。道灌は怒ってその場を立ち去っ
  たが、あとで家臣から少女の行いは、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」
  という歌に寄せて蓑のひとつさえ持てないかなしさを山吹の枝に託したものだと聞かされ、自分の
  無学を恥じそれ以降歌道に精進した。
これが有名な「山吹伝説」ですが・・・


1.『常山紀談』の記述
 太田道灌(1432~86)(持資
(もちすけ)、のち資長(すけなが)、道灌は法名)の有名な山吹伝説の最初のものは湯浅常山の『常山紀談』にあります。同書は戦国時代からの名将の言行・逸話を集めたものです。道灌が亡くなってから凡そ250年後の記述であり、信憑性には疑問があるとも言われています。異本が数種あるということですが、国立国会図書館デジタルコレクションで見られる『常山紀談』は元文4年(1739)の板本を底本として、大正元年9月に永井一孝校訂によるものです。巻之一に次のように記述されています。ほとんどの山吹伝説はこの記述から始まっているようです。

   ----------------------------------------
     ○太田持資歌道に志す事
太田左衛門大夫持資は上杉宜政の長臣なり。鷹狩に出でて雨に逢ひ、或小屋に入りて蓑を借らんと言ふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、花を求むるに非ず、とて怒りて帰りしに、是を聞きし人は、其れは、

    七重八重花は咲けども山吹のみの一つだに無きぞ悲しき  ・・・・・・①

といふ古歌の意
(こころ)なるべし、といふ。持資驚きて其より歌に志を寄けり。宜政下総の廳南に軍を出す時、山涯(やまぎは)の海邊を通るに、山上より弩(おほゆみ)を射懸けられんや又潮満ちたらんや計り難し、とて危(あやぶ)みける。折ふし夜半の事なり。持資、いざ我見来らんとて馬を馳出し、軈(やが)て帰りて、潮は干たりといふ。如何にして知りたるや、と問ふに、

  遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知る

と詠(よめ)る歌あり。千鳥の聲遠く聞えつ、と言ひけり。又何れの時にや、軍を返す時、是も夜の事なりしに、利根川を渡らんとするに、暗さは暗し浅瀬も知らず。持資又、

  底ひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて

といふ歌有り。波音荒き所を渡せ、と言ひて事無く渡しけり。持資後に道灌と称す。

  雪玉實隆
(せつぎょくさねたか)の歌に、
   雨に著
(き)るみの無しとてや山吹のつゆにぬるゝは心つかじを 袖中後拾遺和歌集
小倉の家に住み侍る頃、雨降り侍りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり。心も得でまかり過ぎて、又の日山吹心得ざる由言ひおこせて侍りける。
  返
(かへし)に言ひ遣しける。兼明(かねあきら)親王、

    七重八重花は咲けども山吹のみの一つだに無きぞあやしき  ・・・・・・②
   ---------------------------------------

 この話は江戸時代には教訓話として広く知れ渡っていたといわれます。大槻磐渓(1801~78)(幕末・維新期の儒者。砲術家)の七言絶句の「太田道灌蓑を借るの図に題す」は詩吟部の学生のとき覚えた思い出があります。次のような漢詩です。

    孤鞍雨を衝いて茅茨
(ぼうじ)を叩く
    少女為に遣る花一枝
    少女は言はず花語らず
    英雄の心緒乱れて糸の如し

 この歌は山吹の「実の」に雨具の「蓑」を掛けているということでも有名です。山吹はバラ科の植物ですが、植物的には一重の山吹には普通に実がなりますが、八重は雄しべが花弁に変化しているため花粉ができず、また雌しべも退化しているので実がつかない、とネットで調べるとあります。因みに、越生町の「山吹の里公園」の山吹は八重のものが多いようです。我が家の庭にある山吹は一重ですが。
 ところで、この和歌の第5句は「かなしき」で覚えていましたが、本来の「後拾遺和歌集」(平安後期の勅撰和歌集。承保2年(1075)藤原通俊が撰し、応徳3年(1086)成立)の兼明
(かねあきら)親王の歌は②のように「あやしき」になっているようです(岩波の新日本古典文学大系や講談社学術文庫をみると「あやしき」とあります)。①のように「かなしき」としたのはこの『常山紀談』の記述からなのでしょうか。
 なお、この歌には上述のように詞書が付いおり、場所は京都嵯峨の小倉ということになっていて、凡そ関東に幾つかある山吹伝説からは遠く離れた場所です。
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2.『江戸名所図会』にある「山吹の里」
 『江戸名所図会』は斎藤幸雄・幸孝・幸成の親子3代によるもので、長谷川雪旦画。天保5~7年(1834~36)刊。この書の巻之四「天権之部」に高田の馬場近くの「山吹の里」の記述と絵が次のようにあります。ここでは第5句は「わびしき」となっています。何れにしても『常山紀談』の影響を受けてさらに話は「発展」したのかも知れません。

   --------------------------------------
 高田の馬場より北の方の民家の辺りをしか唱ふ(この地を、いま向砂利場と号す)。相伝ふ、太田持資
(もちすけ)〔太田道灌、1432-86〕江戸在城の頃、一日戸塚の金川辺りに放鷹(ほうよう)す。そのとき携ふるところの鷹翥(そ)れて飛び去りければ、跡を追ひてここに来るときに、急雨しきりなれば傍らの農家に入って蓑を乞ふ。内より小女出でて、盛りなる山吹の花を手折(たお)りてこれを持資に捧ぐ。されども詞(ことば)を出ださず。持資その意を悟ることを得ずして、かへって憤りを含み、家に帰り、近臣に事のありさまを物語す。中に一人進み出でて云く、「これは蓑のなきといへることならん。古歌に、

   七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞわびしき

かく詠ぜし和歌の心をもて、答へ奉りしならん」と申しければ、持資深く恥ぢて、のち和歌の道を慕ふと云々(この「七重八重」の和歌は、『後拾遺集』に中務卿
(なかつかさのきょう)兼明(かねあきら)親王の詠とす。その言葉書に云く、「小倉の家に住みはべりける頃、雨のふりける日、蓑かる人のはべりければ、山吹の枝を折りてとらせてはべりけり。心もえでまかりすぎて、またの日山吹のこころもえざりしよしいひおこせてはべりける返事に、いひつかはしける」とあり)。


  図の上の詞は、「山吹の里は高田の馬場より北の方民家の辺をいふ、昔太田持資江城にありし頃
 一日
(あるひ)此戸塚の金川の辺に放鷹す、急雨に遇ふて傍らの農家に入り蓑をからん事を乞ふ時に
 内より小女出て詞
(ことは)はなく盛りなる山吹の花一枝をもて持資に捧く、こは後拾遺集に、七重
 八重花はさけとも山吹のみのひとつたになきそかなしき、とある兼明親王の和歌によりて答へたる
 にて今も其才を賞し世に傅へて美談とせり」とあります。

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3.山吹伝説の場所/道灌像
(1)埼玉県越生町(2019年4月11日)
 
                        山吹の里


       
       太田道灌像(六田貴之作 越生町役場)        太田道灌墓(龍穏寺)


(2)東京都荒川区(2019年6月3日撮影)
    日暮里駅東口には、「回天一枝」と題する太田道灌騎馬像(橋本活道作、1989年)と、「山吹
   の花一枝」と題する娘の像(平野千里作、平成30年)があります。そして、荒川区の標識には、
    「区内西日暮里には道灌に由来する伝承がいくつも残っている。道灌山(西日暮里4丁目)の地
    名は、江戸城の出城に由来すると伝え、道灌の子孫、掛川藩太田家の菩提寺の本行寺には、物
    見塚あったことを伝える道灌丘碑が立つ。その他西日暮里公園には、物資を運ぶ際に目印にし
    た船繁松があったと伝え、出城の鎮守・諏方神社等がある」

   とあり、また道灌に黙って一枝の山吹を捧げた娘について、
    「荒川区周辺は、道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川6丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛
    門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える」
   とあります。







 (左)太田道灌騎馬像。「道灌の山吹の一枝の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めた道灌
    が、まさに『回天』の勢いで文の道を極めていったことを表現しようと『回天一枝』という作
    品名を作者と鈴木俊一元都知事が命名した」とあります。
 (右)「山吹の花一枝」の娘の像
             (ともに、日暮里駅東口にあります)


(3)東京国際フォーラム(有楽町)の太田道灌像(2019年6月3日撮影)

 この太田道灌像は、開都500年を記念して昭和33年に旧都庁舎に設置され、その後都庁が新宿に移転にするに伴い現在の東京国際フォーラム内に設置されたといいます。作者は朝倉文夫氏。




























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