やまぶき 和算と歴史随想




和算資料     石碑・墓石等

埼玉県の墓碑等

  桜沢英季の墓(嘉永元年(1848))   関流算術の碑(明治5年(1872))   藤田雄山貞資先生顕彰碑(平成24年(2012))

  明野氏寿蔵碑
(明治30年(1897))   黒沢重栄の墓(明治22年(1889))   格斎先生碑銘(大正5年(1916))

  方円堂田中算翁塚
(明治7年(1874))  吉田庸徳の墓(明治13年(1880))   杉田久右衛門の墓(嘉永2年(1849)) 

  吉田勝品寿蔵碑
(明治11年(1878))  細井長次郎の墓(安政7年(1860))   山口三四郎の墓(明治22年(1889)) 

  内田往延先生之碑
(昭和8年(1933))  矢嶋久五郎の墓(安政2年(1855))   宮崎萬治郎の墓(明治36年(1903)) 

  加藤兼安の数術敬讃之碑
(弘化5年(1848))  大越数道軒の墓(明治26年(1893))  千葉歳胤の墓(寛政元年(1789))

  石井弥四郎の墓(明治4年(1871))


東京都の墓碑等

  古川氏清の墓(文政3年(1820)) 安島直円の墓(寛政10年(1798)) 藤田雄山・嘉言父子の墓(文化4年(1807)、文政11年(1828))

  日下 誠の墓(天保10年(1839))  関 孝和の墓(安政7年(1860))   伊能忠敬の墓(明治22年(1889)) 

  
高橋至時の墓


千葉県の墓碑等

  剣持章行先生碑(昭和8年(1933))  花香安精の碑(天保15年(1844))   


群馬県の墓碑等

  永山義長の墓(宝暦13年(1763))  小野栄重の墓(天保2年(1831))   斎藤宜義の墓(明治22年(1889)) 

  岩井君功績碑(大正6年(1917))  関 孝和の碑(藤岡市民ホール前)   関 孝和の墓(藤岡市 光徳寺) 









桜沢長右衛門英季の墓(明和5年(1768)?~嘉永元年(1848))、天壽算翁居士美里町小茂田 勝輪寺 2015年4月撮影 詳細1 詳細2

 () 嘉永元申年十二月二十日
 () 天壽天壽算翁居士
 () 俗名櫻澤長右衛門英季
         行年八十才


      左側面上に次のようにあります。
        「
そろばんも あだしのに行 道のつれ」
   
      


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関流算術の碑(明治5年(1872))、八高線松久駅近く、2014年4月撮影。小林喜左衛門良匡(1789~1874)。 詳細1 



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藤田雄山貞資先生顕彰碑(平成24年(2012))深谷市川本公民館、2013年3月撮影    

 

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明野氏寿蔵碑(明治30年(1897))熊谷市小島、2013年1月撮影。明野延右衛門栄章(1835~1904)  詳細1

 
                    背面
  (寄付者等114名の名が刻印されていて、筆頭には上州の中曽根慎吾の名もあります)
             

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黒沢重栄の墓(文化6年(1809)~明治21年(1888))、徳翁良寿居士、熊谷市久下 医王寺、2013年10月撮影  

     詳細1 詳細2


 (左)黒沢重栄の墓

 (下)子の荒次郎の墓(徹叟無底居士)、荒次郎も算術をやった。
  


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格斎先生碑銘(大正5年(1916))、熊谷市鎌倉町 石上寺 2012年10月撮影戸根木格斎(1807~74)。
          詳細は『北武蔵の和算家』の4.6章を参照下さい。

  戸根木格斎は、藤田貞升(貞資の孫)・剣持章行・平井尚休(至誠賛化流)に
  数学を学んでいます。門人に内田祐五郎往延がいる。
  「門人帳」(入門性名録)は人物関係の調査の上でも貴重である。


  格斎先生碑銘は、門人石川弥一郎が大正5年5月に建てたもので、格斎がどのよう
  に生きたかが書かれている。漢文の読み下し文の一部を以下に示す。


     余、幼時格斎先生の門に入りて算数を学ぶ。先生手づから
    算籍を書し、之を授く。一巻を了れば又一巻。而して其の
    書体より以て図形に至るまで、宛然版刻本の如し。当時の
    童蒙視て常と為す。今にして之を思えば、其の学ぶ所に忠
    なること、乃ち称述に足る者あり。篤学の士と謂うべし。
    先生は戸根木氏。武州熊谷の人なり。家世々絹布を売るを
    以て業と為し、練屋と号し、与右衛門と称す。諱は貞一、
    字は士静、初め留五郎と称し、後、家を襲いて格斎と称せ
    しは其の号なり。少小にして書道を嗜み、謡曲を好み、小
    笠原流禮式を習う。而して数学を関流六伝藤田貞升に受け、
    翁は其の蘊奥を極む。初め算則六十巻を編す。後改訂して
    以て算籍七十五巻と為し、之を及門に授く。領主忍侯屢々
    其々篤志を賞す。明治七年十一月二日病歿す。享年六十有
    八。久山寺の先塋の次に葬る。法名禮誉数翁頤楽居士、此
    れ先生の予て石に刻せし所なり。先生飲酒せず、喫煙せず、
    資性温厚にして言動規あり。坐作矩に中る。人を誨ふるに
    懇切にして、絶えて倦色なし。蓋し其の意志時俗に超出し、
    斯学を以て終生の頤楽と為せばなり。 (後略)








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方円堂田中算翁塚(明治7年(1874))、行田市駒形 遍照院 2013年3月撮影。田中算翁(1802~73)
          詳細は『北武蔵の和算家』の5.1章を参照下さい。


   田中算翁(さんおう)は享和二年桑名(三重県)の生まれ。通称は富五郎、
   字を昌言または
千村(ちむら)といい、算翁と号し、別に方円堂とも号した。
   代々藩に仕え文政4四年(1821)家督を継ぐ。文政6年21歳のとき職を辞し
   て江戸
に出て和算・国学をきわめ、嘉永6年(1853)忍藩の算術師範に任命
   され、のち藩校の培根堂及び国学館で教えた。

   『掌中圓理表』などの著作がある。





















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吉田庸徳の墓(弘化元年(1844)~明治13年(1880))、真隣常栄居士、行田市佐間 清善寺、2013年3月撮影
          詳細は『北武蔵の和算家』の5.1章を参照下さい。


   吉田庸徳(ようとく)は忍藩士。芳川春涛から英語を学び、田中算翁に数学を習い、
   東京本所緑町二丁目に寄留。大鳥圭助(幕末の軍人、明治の官僚)にも学ぶ。
   文久元年(1861)、18歳で算術書を著作し培根堂の教授となる。算術書はよく
   売れ本所に学校設立を計画したが、37歳の若さで病没した。
   著書に『西洋度量早見』『洋算早学』『筆算楷梯』『中外度量早見』
   『算術教授書』『開化算法大成』『和算通書』『算則解術記』など























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杉田久右衛門の墓(?~安政2年(1855))、東方之月清信士、小川町大字小川 高西寺、2012年12月撮影  


           詳細1


























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吉田勝品寿蔵碑(明治11年(1878))、小川町勝呂 吉田家、2013年4月撮影   


      詳細1  詳細2






















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細井長次郎の墓(寛政12年(1800)~安政7年(1860))、法算心綿信士、小川町中爪 不動堂共同墓地内、2010年5月撮影
                                

          詳細1



























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山口三四郎の墓(文化12年(1813)~ 明治22年(1889))、小川町腰越字赤木 山口家墓地、2014年11月撮影  



          詳細1






















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内田往延先生之碑(昭和8年(1933))、滑川町月輪 根岸家、2013年10月撮影。内田祐五郎往延(天保14年(1843)~大正11年(1922))


               詳細1

 内田祐五郎往延(ゆきのぶ)は、比企郡菅谷村杉山(現嵐山町杉山)の人。

 戸根木格斎と剣持章行に学んでいる。
 明治11年東松山市の岩殿観音に算額を奉納している。



 (左)内田往延先生之碑(昭和8年に門人たちが建立した頌徳碑)


 (下)碑の「法算」の字の下に写真のような問題(図形と問文と術文がある)
    が描かれて
いる。
  
 





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矢嶋久五郎の墓(天明7年(1787)~安政2年(1855))、吉見町下銀谷 2013年1月撮影、  


          詳細1

  矢嶋久五郎豊高は吉見町下銀谷の人。
  36歳のとき、吉見村御所の岩殿山観音堂(吉見観音、安楽寺)に算額を奉納している。
  墓の背面に碑文があり、台座には門人39名の名がある。


















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宮崎萬治郎の墓(文化5年(1808)~明治16年(1883))、明治36年(1903)建立、ときがわ町大附、2014年4月撮影。 


     詳細1 詳細2


 (左)正面

 (右)背面
















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加藤兼安の数術敬讃之碑(弘化5年(1848))秩父郡横瀬町横瀬、2012年10月撮影、加藤兼安(天明6年(1786)~安政4年(1857))
              詳細は『北武蔵の和算家』の8.3章を参照下さい。


  加藤治兵衛兼安は、天明6年秩父郡横瀬村の川西地区三角に生
  まれ、安政4年4月に72歳で亡くなる。名を治兵衛といい、天
  保から嘉永年間にわたり数術を広め、門弟は壱千名を越えたと
  碑文にある。
  また碑文によれば「知慧(ちえ)車」と題する書を著しているが
  詳細は不明である。

















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大越数道軒の墓(?~明治26年(1893))俗名大越芳太郎正義、秩父郡横瀬町横瀬、2013年6月撮影。


           詳細1       
    


 向って左側面の辞世
   楽しさは老い木に花のここちせり
           数の梢に実をや結ひて


















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石井弥四郎和儀の墓(文化元年(1804)~明治4年(1871))、飯能市原市場 西光寺(廃寺)2011年9月撮影



          詳細1  詳細2





















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古川氏清の墓(宝暦8年(1758)~文政3年(1820))、台東区池之端 東淵寺、2014年5月撮影

           詳細1

























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安島直円の墓(享保17年(1732)~寛政10年(1798))、港区三田 常林寺、2014年4月撮影
                                                      詳細1


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藤田雄山・嘉言父子の墓  新宿区須賀町 西應寺、2015年3月撮影


             詳細1



 右:雄山藤田先生墓 (藤田貞資)
    左側面から背面、右側面にかけて碑文があります。
    碑文の内容は『増修日本数学史』等にあります。
    (拙著の『北武蔵の和算家』に掲載したものは、
    『雄山物語』(藤田雄山貞資先生顕彰会)から
     引用させて頂きました)

 左:龍川先生之墓 (藤田嘉言)











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日下 誠の墓(明和元年(1764)~天保10年(1839))、台東区谷中 多宝院、2015年8月撮影


            詳細1























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関 孝和の墓(寛永17(1640)?~宝永5年(1708))、新宿区弁天町 浄輪寺、2007年11月・12月撮影  関連1 関連2

 
  左が関新助孝和の墓で、「宝永五年戊子十月廿四日卒 贈従四位時明治       寛政6年に本多利明らが建てた
  四十年十一月十五日 法行院殿宗達日心大居士 姓藤原諱孝和称関新助」      「関先生之碑」(2007年12月撮影)
  とあります(2007年11月撮影)。贈従四位は刻印のように後に刻された。
  右は本多利明らが建てた記念碑で「関先生之墓」で昭和33年に再建され
  たもの。


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伊能忠敬の墓(延享2年(1745)~文化15年(1818))、台東区上野 源空寺 2018年9月撮影


           詳細1



 


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高橋至時の墓(明和元年(1764)~文化元年(1804))台東区上野 源空寺 2018年9月撮影


          詳細1





 

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剣持章行先生碑 昭和8年(1933)建立、千葉県旭市鏑木 願勝寺墓地か 2015年9月撮影
                                詳細1  詳細2
 
        剣持章行先生碑            剣持章行墓(中央の小さな墓の正面に「剣持章行
                           先生墓」、右側面に「昭和八年四月五日」、左側
                           面に「古城村教育會建之」とある。左の墓には「明
                           治二十二年旧三月八日卒 行年四十一才 山崎平右エ
                           門」とある。碑の直ぐ近くの山崎家墓地)


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花香安精の碑(天保15年(1844))千葉県旭市萬歳 東福寺 2015年9月撮影    詳細1  詳細2

  


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永山義長の墓(?~宝暦13年(1763))、直指見性居士、2015年4月撮影
                 詳細1


 (左)(下左)群馬県安中市 大泉寺 (門人による準墓)
         左右側面に碑文あり、詳細1を参照下さい。


    (下右)群馬県高崎市榛名町下室田 長年寺




  






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小野栄重の墓(宝暦13年(1763)~天保2年(1831))、群馬県安中市板鼻 南窓寺、2010年8月撮影


  小野栄重は通称捨五郎、のち良助(良佐)と改めた。号は子巌。宝暦13年に碓氷郡中野谷村
  の須藤家に生まれ、親戚である板鼻の小野家の養子となった。幼い頃から和算を好み、16歳
  の頃吉沢恭周(上里町)に入門した。
  寛政元年(1787)の27歳の時、江戸への留学を決意。藤田貞資に入門し、子嘉言(よしとき)か
  ら関流の免許皆伝を受け関流六伝を称した。寛政9年(1797)板鼻に帰り、岩井重遠や斎藤宜長、
  剣持章行、それに熊谷の代島久兵衛などを育てた。
  栄重は和算の研究だけでなく測量術にも興味を持ち、享和2年(1802)伊能忠敬に従い天体観測
  の方法を学び、翌年忠敬の第4次全国測量隊(東海・北陸方面)に測量担当として参加した。
  この時栄重41歳であった。この後も忠敬の第7次全国測量隊が文化6年(1809)に高崎安中間の
  測量をした際にも参加している。
















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斎藤宜義の墓(文化13年(1816)~明治22年(1889))、群馬県玉村町板井 宝蔵寺、2013年10月撮影


  斎藤宜義は幕末明治期の和算家で斎藤宜長の子。父とともに天下に上毛の算者といわ
  れた。通称は長次郎、あるいは長平、朝二。号は算象、逐斎、乾坤独算民。父に和算
  を学び、10歳で算額を奉納。18歳のとき宜長閲・宜義著として『算法円理鑑』(1834)
  を刊行し、以後『算法円理起源表』(1837)、『算法円理新々』(1840)、『数理神篇』
  (1860)を発表。高尚な問題を扱っている。社会の変化に動ぜず財を傾け清貧に甘んじ
  た姿は乾坤独算民の号そのものであるといわれる。弟子に安原千方・中曽根慎吾・船津
  伝次平・萩原禎助ら。戒名は数学院乾坤自白宜義居士。





 














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岩井君功績碑(大正6年5月)、安中市松井田町新井 補陀寺、2010年8月撮影


  文化元年9月生まれ。安中藩士。白石長忠に学ぶ。安政3年郷校桃渓書院を開
  いた。明治11年6月22日死去。75歳。編著に「算法
雑俎」。
  碑は大正6年、菊池大麓撰文とあるが、碑文は未読です。































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関 孝和の碑 群馬県藤岡市 市民ホール前 2011年12月撮影


 (左)算聖之碑(昭和4年に芦田城址に建立、昭和63年現在地に移転)
    撰文は藤沢利喜太郎


 (下)算聖関孝和先生之像(昭和63年建立)

 

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関 孝和の墓  群馬県藤岡市藤岡 光徳寺   2011年12月撮影


  関孝和の墓は東京都新宿区の浄輪寺にあるが、孝和没後
  250年の昭和33年、芦田氏の菩提寺である光徳寺に御霊
  を迎え墓所が築かれた。

  芦田氏には芦田五十騎という家臣団があり、その中に内
  山家、関家がいた。孝和は内山家の生まれだが、関家の
  養子となっている。
















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