(右) 嘉永元申年十二月二十日
(正) 天壽天壽算翁居士
(左) 俗名櫻澤長右衛門英季
行年八十才
左側面上に次のようにあります。
「そろばんも あだしのに行 道のつれ」
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●関流算術の碑(明治5年(1872))、八高線松久駅近く、2014年4月撮影。小林喜左衛門良匡(1789~1874)。 詳細1
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●藤田雄山貞資先生顕彰碑(平成24年(2012))、深谷市川本公民館、2013年3月撮影
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●明野氏寿蔵碑(明治30年(1897))、熊谷市小島、2013年1月撮影。明野延右衛門栄章(1835~1904) 詳細1
背面
(寄付者等114名の名が刻印されていて、筆頭には上州の中曽根慎吾の名もあります)
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●黒沢重栄の墓(文化6年(1809)~明治21年(1888))、徳翁良寿居士、熊谷市久下 医王寺、2013年10月撮影
詳細1 詳細2
(左)黒沢重栄の墓
(下)子の荒次郎の墓(徹叟無底居士)、荒次郎も算術をやった。
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●格斎先生碑銘(大正5年(1916))、熊谷市鎌倉町 石上寺 2012年10月撮影。戸根木格斎(1807~74)。
詳細は『北武蔵の和算家』の4.6章を参照下さい。
戸根木格斎は、藤田貞升(貞資の孫)・剣持章行・平井尚休(至誠賛化流)に
数学を学んでいます。門人に内田祐五郎往延がいる。
「門人帳」(入門性名録)は人物関係の調査の上でも貴重である。
格斎先生碑銘は、門人石川弥一郎が大正5年5月に建てたもので、格斎がどのよう
に生きたかが書かれている。漢文の読み下し文の一部を以下に示す。
余、幼時格斎先生の門に入りて算数を学ぶ。先生手づから
算籍を書し、之を授く。一巻を了れば又一巻。而して其の
書体より以て図形に至るまで、宛然版刻本の如し。当時の
童蒙視て常と為す。今にして之を思えば、其の学ぶ所に忠
なること、乃ち称述に足る者あり。篤学の士と謂うべし。
先生は戸根木氏。武州熊谷の人なり。家世々絹布を売るを
以て業と為し、練屋と号し、与右衛門と称す。諱は貞一、
字は士静、初め留五郎と称し、後、家を襲いて格斎と称せ
しは其の号なり。少小にして書道を嗜み、謡曲を好み、小
笠原流禮式を習う。而して数学を関流六伝藤田貞升に受け、
翁は其の蘊奥を極む。初め算則六十巻を編す。後改訂して
以て算籍七十五巻と為し、之を及門に授く。領主忍侯屢々
其々篤志を賞す。明治七年十一月二日病歿す。享年六十有
八。久山寺の先塋の次に葬る。法名禮誉数翁頤楽居士、此
れ先生の予て石に刻せし所なり。先生飲酒せず、喫煙せず、
資性温厚にして言動規あり。坐作矩に中る。人を誨ふるに
懇切にして、絶えて倦色なし。蓋し其の意志時俗に超出し、
斯学を以て終生の頤楽と為せばなり。 (後略)
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●方円堂田中算翁塚(明治7年(1874))、行田市駒形 遍照院 2013年3月撮影。田中算翁(1802~73)
詳細は『北武蔵の和算家』の5.1章を参照下さい。
田中算翁(さんおう)は享和二年桑名(三重県)の生まれ。通称は富五郎、
字を昌言または千村(ちむら)といい、算翁と号し、別に方円堂とも号した。
代々藩に仕え文政4四年(1821)家督を継ぐ。文政6年21歳のとき職を辞し
て江戸に出て和算・国学をきわめ、嘉永6年(1853)忍藩の算術師範に任命
され、のち藩校の培根堂及び国学館で教えた。
『掌中圓理表』などの著作がある。
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●吉田庸徳の墓(弘化元年(1844)~明治13年(1880))、真隣常栄居士、行田市佐間 清善寺、2013年3月撮影
詳細は『北武蔵の和算家』の5.1章を参照下さい。
吉田庸徳(ようとく)は忍藩士。芳川春涛から英語を学び、田中算翁に数学を習い、
東京本所緑町二丁目に寄留。大鳥圭助(幕末の軍人、明治の官僚)にも学ぶ。
文久元年(1861)、18歳で算術書を著作し培根堂の教授となる。算術書はよく
売れ本所に学校設立を計画したが、37歳の若さで病没した。
著書に『西洋度量早見』『洋算早学』『筆算楷梯』『中外度量早見』
『算術教授書』『開化算法大成』『和算通書』『算則解術記』など
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●杉田久右衛門の墓(?~安政2年(1855))、東方之月清信士、小川町大字小川 高西寺、2012年12月撮影
詳細1
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●吉田勝品寿蔵碑(明治11年(1878))、小川町勝呂 吉田家、2013年4月撮影
詳細1 詳細2
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●細井長次郎の墓(寛政12年(1800)~安政7年(1860))、法算心綿信士、小川町中爪 不動堂共同墓地内、2010年5月撮影
詳細1
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●山口三四郎の墓(文化12年(1813)~ 明治22年(1889))、小川町腰越字赤木 山口家墓地、2014年11月撮影
詳細1
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●内田往延先生之碑(昭和8年(1933))、滑川町月輪 根岸家、2013年10月撮影。内田祐五郎往延(天保14年(1843)~大正11年(1922))
詳細1
内田祐五郎往延(ゆきのぶ)は、比企郡菅谷村杉山(現嵐山町杉山)の人。
戸根木格斎と剣持章行に学んでいる。
明治11年東松山市の岩殿観音に算額を奉納している。
(左)内田往延先生之碑(昭和8年に門人たちが建立した頌徳碑)
(下)碑の「法算」の字の下に写真のような問題(図形と問文と術文がある)
が描かれている。
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●矢嶋久五郎の墓(天明7年(1787)~安政2年(1855))、吉見町下銀谷 2013年1月撮影、
詳細1
矢嶋久五郎豊高は吉見町下銀谷の人。
36歳のとき、吉見村御所の岩殿山観音堂(吉見観音、安楽寺)に算額を奉納している。
墓の背面に碑文があり、台座には門人39名の名がある。
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●宮崎萬治郎の墓(文化5年(1808)~明治16年(1883))、明治36年(1903)建立、ときがわ町大附、2014年4月撮影。
詳細1 詳細2
(左)正面
(右)背面
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●加藤兼安の数術敬讃之碑(弘化5年(1848))、秩父郡横瀬町横瀬、2012年10月撮影、加藤兼安(天明6年(1786)~安政4年(1857))
詳細は『北武蔵の和算家』の8.3章を参照下さい。
加藤治兵衛兼安は、天明6年秩父郡横瀬村の川西地区三角に生
まれ、安政4年4月に72歳で亡くなる。名を治兵衛といい、天
保から嘉永年間にわたり数術を広め、門弟は壱千名を越えたと
碑文にある。
また碑文によれば「知慧(ちえ)車」と題する書を著しているが
詳細は不明である。
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●大越数道軒の墓(?~明治26年(1893))、俗名大越芳太郎正義、秩父郡横瀬町横瀬、2013年6月撮影。
詳細1
向って左側面の辞世
楽しさは老い木に花のここちせり
数の梢に実をや結ひて
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●石井弥四郎和儀の墓(文化元年(1804)~明治4年(1871))、飯能市原市場 西光寺(廃寺)2011年9月撮影
詳細1 詳細2
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●古川氏清の墓(宝暦8年(1758)~文政3年(1820))、台東区池之端 東淵寺、2014年5月撮影
詳細1
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●安島直円の墓(享保17年(1732)~寛政10年(1798))、港区三田 常林寺、2014年4月撮影
詳細1
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●藤田雄山・嘉言父子の墓 新宿区須賀町 西應寺、2015年3月撮影
詳細1
右:雄山藤田先生墓 (藤田貞資)
左側面から背面、右側面にかけて碑文があります。
碑文の内容は『増修日本数学史』等にあります。
(拙著の『北武蔵の和算家』に掲載したものは、
『雄山物語』(藤田雄山貞資先生顕彰会)から
引用させて頂きました)
左:龍川先生之墓 (藤田嘉言)
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●日下 誠の墓(明和元年(1764)~天保10年(1839))、台東区谷中 多宝院、2015年8月撮影
詳細1
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●関 孝和の墓(寛永17(1640)?~宝永5年(1708))、新宿区弁天町 浄輪寺、2007年11月・12月撮影 関連1 関連2
左が関新助孝和の墓で、「宝永五年戊子十月廿四日卒 贈従四位時明治 寛政6年に本多利明らが建てた
四十年十一月十五日 法行院殿宗達日心大居士 姓藤原諱孝和称関新助」 「関先生之碑」(2007年12月撮影)
とあります(2007年11月撮影)。贈従四位は刻印のように後に刻された。
右は本多利明らが建てた記念碑で「関先生之墓」で昭和33年に再建され
たもの。
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●伊能忠敬の墓(延享2年(1745)~文化15年(1818))、台東区上野 源空寺 2018年9月撮影
詳細1
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●高橋至時の墓(明和元年(1764)~文化元年(1804))、台東区上野 源空寺 2018年9月撮影
詳細1
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●白石長忠の墓(寛政7年(1795)~文久2年(1862))、世田谷区北烏山 多聞院 2019年12月撮影
詳細
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●剣持章行先生碑 昭和8年(1933)建立、千葉県旭市鏑木 願勝寺墓地か 2015年9月撮影
詳細1 詳細2
剣持章行先生碑 剣持章行墓(中央の小さな墓の正面に「剣持章行
先生墓」、右側面に「昭和八年四月五日」、左側
面に「古城村教育會建之」とある。左の墓には「明
治二十二年旧三月八日卒 行年四十一才 山崎平右エ
門」とある。碑の直ぐ近くの山崎家墓地)
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●花香安精の碑(天保15年(1844))、千葉県旭市萬歳 東福寺 2015年9月撮影 詳細1 詳細2
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●永山義長の墓(?~宝暦13年(1763))、直指見性居士、2015年4月撮影
詳細1
(左)(下左)群馬県安中市 大泉寺 (門人による準墓)
左右側面に碑文あり、詳細1を参照下さい。
(下右)群馬県高崎市榛名町下室田 長年寺
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●小野栄重の墓(宝暦13年(1763)~天保2年(1831))、群馬県安中市板鼻 南窓寺、2010年8月撮影
小野栄重は通称捨五郎、のち良助(良佐)と改めた。号は子巌。宝暦13年に碓氷郡中野谷村
の須藤家に生まれ、親戚である板鼻の小野家の養子となった。幼い頃から和算を好み、16歳
の頃吉沢恭周(上里町)に入門した。
寛政元年(1787)の27歳の時、江戸への留学を決意。藤田貞資に入門し、子嘉言(よしとき)か
ら関流の免許皆伝を受け関流六伝を称した。寛政9年(1797)板鼻に帰り、岩井重遠や斎藤宜長、
剣持章行、それに熊谷の代島久兵衛などを育てた。
栄重は和算の研究だけでなく測量術にも興味を持ち、享和2年(1802)伊能忠敬に従い天体観測
の方法を学び、翌年忠敬の第4次全国測量隊(東海・北陸方面)に測量担当として参加した。
この時栄重41歳であった。この後も忠敬の第7次全国測量隊が文化6年(1809)に高崎安中間の
測量をした際にも参加している。
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●斎藤宜義の墓(文化13年(1816)~明治22年(1889))、群馬県玉村町板井 宝蔵寺、2013年10月撮影
斎藤宜義は幕末明治期の和算家で斎藤宜長の子。父とともに天下に上毛の算者といわ
れた。通称は長次郎、あるいは長平、朝二。号は算象、逐斎、乾坤独算民。父に和算
を学び、10歳で算額を奉納。18歳のとき宜長閲・宜義著として『算法円理鑑』(1834)
を刊行し、以後『算法円理起源表』(1837)、『算法円理新々』(1840)、『数理神篇』
(1860)を発表。高尚な問題を扱っている。社会の変化に動ぜず財を傾け清貧に甘んじ
た姿は乾坤独算民の号そのものであるといわれる。弟子に安原千方・中曽根慎吾・船津
伝次平・萩原禎助ら。戒名は数学院乾坤自白宜義居士。
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●岩井君功績碑(大正6年5月)、安中市松井田町新井 補陀寺、2010年8月撮影
文化元年9月生まれ。安中藩士。白石長忠に学ぶ。安政3年郷校桃渓書院を開
いた。明治11年6月22日死去。75歳。編著に「算法雑俎」。
碑は大正6年、菊池大麓撰文とあるが、碑文は未読です。
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●関 孝和の碑 群馬県藤岡市 市民ホール前 2011年12月撮影
(左)算聖之碑(昭和4年に芦田城址に建立、昭和63年現在地に移転)
撰文は藤沢利喜太郎
(下)算聖関孝和先生之像(昭和63年建立)
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●関 孝和の墓 群馬県藤岡市藤岡 光徳寺 2011年12月撮影
関孝和の墓は東京都新宿区の浄輪寺にあるが、孝和没後
250年の昭和33年、芦田氏の菩提寺である光徳寺に御霊
を迎え墓所が築かれた。
芦田氏には芦田五十騎という家臣団があり、その中に内
山家、関家がいた。孝和は内山家の生まれだが、関家の
養子となっている。
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